過干渉の毒親に要注意!お金が無くなる恐怖と親の巧妙な手口にハマらないで

両親ともに毒親だと知って最悪な気分。言葉の暴力は当たり前の日常。ネグレストや過干渉もひどかったのです。子供としては長年毒を与え続けられていた自覚が無く。

最も最悪なのは自覚のない過干渉な毒親の存在なのです。きっと本人たちは毒親という言葉が一般化していることさえ知らないでしょうね。

万が一知ったとしても自覚が無いので他人ごととして頭で処理するのだろうと簡単に推測できます。指摘されたら絶対に毒親じゃないと言い切るはず。

自覚が無いからこそ毒親は恐怖の存在になり得るのです。絶妙で巧妙すぎる過干渉の度合いで傷つける毒親に育てられたことが本当に情けない限り。

毒親を撲滅するという解決の糸口は、絶対に次の世代に引き継がないこと!毒親は一生治りませんから。

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母親の期待を背負うのは宿命なのか

20代に何となく周囲との違和感を感じたのが毒親発覚のキッカケ。親子関係の逆転現象が続いていたのです。逆転に留まらず支配されるという過干渉の形。

30代になって年齢を重ねていく程状況はひどくなるばかり。その頃は意味の分からない苦しみに悩んでいました。家庭環境も社会での立場もとても苦しいものでした。

英才教育に苦しむ

3歳から英才教育としてピアノを習い、私立の幼稚園に通っていました。ここまでは周りの友達も同じ環境だったため母親として当たり前のことをしているのかと思っていたのです。

とにかく熱心。ピアノは専門コースで将来はピアニストというレールを目の前に置く母親。真面目な性格だったこともあってレッスンをサボることはありません。

ただ圧倒的に練習量は少なく、結局専門コースについていくことが出来なくなりました。後にピアニストの練習量は毎日8時間以上だと聞いてゾっとしたのですが。

唯一の感謝と母の異常な干渉

唯一の感謝は、ピアノによって得られた音楽の世界を知ったこと。後に吹奏楽という部活で音感が役に立ったことも、その後音楽に関わることが出来たことも。

一方で母親がピアノをやりたかったという自己中心な考えから私に習わせたという事実。これは知らされた時に悲しくなりました。母親は自分自身を私に投影しているのだと。

母の異常な干渉は3歳からずっと続いていくのです。

中学校お受験?

小学校高学年になると中学受験の話が出ました。毒親過干渉あるあるですよね。受験して私立に入るなんて全く考えてもいませんでしたから、もうビックリ。

母親の気持ちを汲みたい気持ちもあったけれど、既に勉強への意欲が消失していたので居住地の学校区である中学校に通うことになりました。

部活動が文化系で屋内限定

衝動的に走り出すという性分には気付いていたので(かなり後で発達障害だとわかるのですが)とにかく身体を動かしていないとダメだと思い陸上部を希望したのです。

しかし母親は猛反対!

「女の子なのにそれ以上日焼けしたらどうするの!」

外で遊ぶことが多かったせいか日焼けは当たり前だったのですが、中学になって急に女の子として扱う母親の気持ちは全く理解できませんでした。

「屋内の文化系部活にしなさい!」

理解できないまま意味の分からない指定をされて陸上部を諦めることに。ピアノを習っていた関係もあって吹奏楽なら反対されないだろうと予測。

結局母親の言う事を聞く形になるのです。陰ながら支配されているとは気付く余地もありません。吹奏楽は偶然にも強豪校だったので中学と高校合わせて6年間部活中心の生活に。

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何事にも口を出して干渉し続ける母親

高校を出て就職する事も考えたのですが、過干渉の親がせめて大学は出てほしいと懇願。両親は学歴が低いことにコンプレックスを持っていたためです。

劣悪な家庭環境

我が家は両親の仲が非常に悪く父親が生活費を家に入れないという険悪な状況。唯一の救いと言えば母親の実家が裕福だったことでしょうか。

子どもを育てるための費用は実家からの援助で成り立っていたことを後に知りました。祖父母は家計が苦しいことを知って孫の大切な成長期を支えてくれたのです。

祖父母は孫である私に対して特別に優しくしてくれたことが印象深く残っています。ただ母親から見ると明らかに毒親だと後日発覚することに。

洋服への干渉と卒業

日常の洋服に関しては母親の手作りが基本。学校を卒業して就職しても母親が選ぶ色と形の服を着ていました。服に関しては無知だったこともあり着せ替え人形に。

就職してからも常に買い物は一緒。仕事の服には好きでもない色を押し付けられました。イマイチな顔をしても母親は知らんぷりです。

「これが一番似合うから」

与えられるまま日常をすごしていました。ですが就職してお給料を貰うことで転機が訪れます。通勤途中の洋服店に立ち寄るようになってから新しい世界を見たのです。

仕事終わりに色んなお店に立ち寄って自分の趣味趣向を模索し始めました。そして自分自身が着たいと思う服が把握できるように。全てが真っ黒な世界でしたが。

節約?栄養管理?食事への厳しい制約

食事に関しても同様。基本的に家での手作りを食べなさいという指示がずっと続きます。外食やファストフードなどもってのほかでした。友達が羨ましかった。

唯一母親の実家に行った時だけは少し高い料理店で食事するというスタイル。母親は家計の苦しさを実家に詳細に告げることはありませんでしたが祖父母には理解があった様子。

母親の実家は野菜を沢山作っていたので、帰りには季節の食材を沢山持ち帰ることが出来ました。スーパーで野菜を買うことさえ厳しい状況だったのでしょうか。

壮絶な時期が救いに?家庭内別居が毒親を消去する脅威

母親の過干渉が唯一の助けになったのは両親の家庭内別居でした。暴力夫である父親から逃げるように毎日早朝から電車に乗り込むのに必死な生活に追われていたのです。

毎日残業手当のないブラックな会社で遅くまで残っていたのは帰りたくないから。通勤時間に往復2時間以上もかかっていた関係でアパートを借りるという話に。

本来なら自立目的で一人暮らしをしたいと思うのですが。家庭内別居で劣悪な家庭環境にあったので母親のことが気がかり。家を出るなら母親も気軽に住めるようにと。

住宅雑誌を持ち帰り家を出るという計画に発展していったのです。結局アパートへの引っ越しは計画倒れになったものの母親を父親から救うことを第一に考えるように。

離婚代行業務

本来なら過干渉の母親から離れるという自我が芽生えるはずなのですが、両親が離婚するまでは何とかサポートしないといけないと必死だった記憶が残っています。

会社を辞めてまでサポートするようになりました。離婚が成立するまで母親をしっかりサポートしないといけないという妙な使命感があったのです。

その過程には母親が病弱で体調不良になることが度々あったことが関わっています。入退院を繰り返す時期も重なってますます離れることができない状況に。

離婚後の母親のイライラ

離婚が成立したにも関わらず母親の怒りの矛先は常に私でした。精一杯サポートしたことを評価されるどころか、むしろ文句を言われる始末。

離婚裁判の最中、母親の実家の援助もあり安心できる自室のある我が家を手にすることができたのですが今度は母親との相性が悪いことが判明したというより表面化。

何度か母親が入院したので仕事の合間にサポートしていたつもりが、退院した途端恨みつらみを言われるように。母親が退院する時期には解放されたい気持ちが湧きおこりました。

毒親との別離期間

精一杯サポートしてもイヤミを言われるので、ある時期から母親の退院と共に夜遊びするようになったのです。家にいる事自体がストレスになってしまい。

家に帰ることがますます嫌になっていきました。そのタイミングで偶然出会ったのが過去の仕事の上司でした。単身だったので家に転がり込むように避難。

同居を快く引き受けてくれたので出来る限り迷惑が掛からないように昼夜を逆転する仕事を選びました。仕事も夜勤の仕事を選ぶことで視野がひろがりました。

初めての一人暮らしを感覚で味わう

この時からやりたかったことを一気に開放させてみました。恋愛体質では無かったのですが一緒に住む元上司とは出来るだけ顔を合わせず一人の時間を楽しみたかったのです。

とにかく一人になることの解放感が気持ちよく。自由になるってこういうことだったのかと知ったのは既に30歳目前でした。仕事も趣味も同時進行で忙しくこなしました。

同居しながらも干渉せずにやりたいことをやらせてくれた同居人には今でも感謝しています。同時に次の世代に同じような形で引き継いではいけないと強く決意。

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本当は気が進まない?母親のために頑張りすぎる

自由で開放的な時間はいつまでも続きませんでした。同居人の引っ越し事情などが重なり結局実家に帰ることになるのです。自由時間は終わったんだと実感。

母親のために戻る

まだ母親の過干渉の中で生きていかなければならないのです。母親は離婚してひとりなので面倒を見なければいけないという新たな目的ができました。

  • 母親と買い物に出かけるために働く
  • 育ててもらった母親に恩返しする

働くことは私にとって母親に給料を丸ごと使うような生活だという形なのです。その裏に母親の要求通りに動いているとは全く気付かずに一生懸命でした。

夜勤や夜間に働くことで人よりもお給料は貰えていたはずなのに。母親の要求は尽きることが無く、湯水のように母親のために金銭を使うように。

PTSDとうつプラス発達障害

仕事は完璧主義で順調に出世もしていきましたが同時進行で何かが狂い始めました。仕事のストレスもあって結局体調を崩してしまったのです。

長年のPTSDによるうつでした。PTSDとは海外の帰還兵が戦争のショックから立ち直れないという症状のこと。毒親である両親からの毎日の暴言や暴力。

ネグレストなどに傷ついていたことがオモテに症状として出たのです。うつからの発達障害ということもドクターから宣告され休職期間に入りました。

焦燥感とのたたかい

休職期間にも母親からの巧妙なやり口から逃れることはできず。早く復帰しなければいけないと、せかされる日々。気持ち的にも焦れば焦るほど体調は悪化の一途。

結局復帰の見通しは立たず退職することに。退職してからは社会復帰は無理だと言われ障害年金の申請をすることに。障害年金の申請が通ると国から少しの援助が得られます。

ただ生活するには程遠い額なので、今までの貯金を切り崩して母親に投資する生活は変えられませんでした。病気だということを母親に信じてもらえず苦しむ日々。

掟破りがアダとなる

結局ドクターの反対を押し切って一旦障害者枠での就職活動を始めました。運が良かったのか間もなく採用が決まり大企業だったこともあり母親は周囲に自慢しはじめ。

結局お給料は母親に流れるシステムに変わりなく。ドクターストップを押し切ったことがアダになり、また倒れることになりました。休職、そして退職。

体調は悪化の一途をたどり、障害年金も額改定を請求することにしました。母親は金銭の出どころには興味が無く一切かかわることはありません。

借金生活は既に始まっていた

とても一人ではできないので社労士の先生をネットで探し、額改定になんとかこぎつけることになりました。それからも貯金を切り崩す生活の中、母親の喝が。

「いつまで家にいるの?ヒマなの?」

喝というよりも何かと物入りだと要求され続けたのです。病気になったことで迷惑をかけているという気持ちが強く母親にお金を差し出すことでご機嫌とりをするように。

母親の機嫌を損ねることを防ぐことを何よりも優先していたのです。とにかくご機嫌ななめになることが怖かった。とうとう貯金も底をつきマイナス状態。

家計を支えていた部分がどうしても支払えなくなりました。

心理学は亀の歩み

長期通院して心理学もかなり学べていたこともあり、何とか生活費の中の固定費としての支払いを母親にスライドさせ始めました。

それが精一杯。結局借金まで背負う形となった今巧妙な手口にまんまとハマってしまった自分が情けなく泣けてきます。明日の生活をどうしたら良いのかわかりません。

心理学の先生は言います。

「やっと、ここまでこれましたね」

「母親の代わりに借金するのは、やめられそうですか?」

そう聞かれた時に全ての現実を私が受け止めなければならないと知るのです。

まだまだ続く毒親からの攻撃

利用されるだけされて返ってくる言葉は心無いイヤミだったり無言でメモだけを置いたりチラシの裏に油性ペンで「家を出て行ってください」と書かれることも。

さんざん投資してきたのに「いい加減に自立してください」と書かれる始末。家計簿をわざわざ目の前に置いてきたりも。

子供をコントロールする親と利用される

母親はやはり同じ女性として話やすいということは分かります。それに子供としても同じ女性目線だからこそ察することが出来るのです。

母親の前ではマジシャン?

毒親を持つと察知する力が発達するので親の期待通りに行動してしまう。常に母親が求めているものをアンテナを張り巡らしてキャッチ。

「これ欲しかったの~」

「なんでわかったの?」

と言われたいがために行動するのです。

真面目だとは思ったことは無いのですが、元来曲がった事が嫌いでした。毒親の言いなりになる事を正当化して借金とココロの傷と体調不良が続くことは耐えがたいこと。

自閉症の弊害

ドクターから入院も進められているのですが、自閉傾向にあるので人との共有物が無理。公共物に触れないという弊害も。入院を避けるには自室に引きこもるしか方法がなく。

徹底的に引きこもることについては厳しく言われています。自室で自分自身と向き合う日々。ただ慣れないことばかりで戸惑いも沢山あります。

自分らしさって何?という状態なのです。真正面から向き合ったことが無いので結局何がやりたいのかが分からず。何のために生きているのかさえ見失っています。

こんなに長期にわたって苦しむとは思いもしませんでした。未だ母親に振り回されて苦しめられている現状を抜け出したい気持ちでいっぱいです。

まとめ

これを読んでいるあなたにはこうなって欲しくない。私のようになってほしくないのです。こんなにツラいことは無いから。

今の私にはブログという形で発信するしか方法が無いのです。親に奪われた人生をどうやって立て直すのか、今更考えだしても間に合うのか自信はありません。

まさに親の身勝手な行動のために利用された人生。やりたいことを言えば反対され、応援されることの無かった人生。これから自分のやりたいことを見つけなければいけません。

心理学の先生からは脅威の早さで回復していると言われていますが正直不安しかありません。幸い物書きになりたかったという過去の淡い希望だけ。

ブログによってその淡い夢が叶いつつあるからこそ、幸い生きていられるのかもしれません。と言ってもまだまだ書いていないことも沢山あります。

毒親だとわかった子どもの立場であるあなたには早期発見であるほど人生の選択の幅が広がりますから、早く自分自身の人生を見つけてほしいのです。

もし過干渉な親になりかけているなら毒親に育てられた可能性を今一度振り返って考えてみてください。同じ苦しみを子供にさせたくないという気持ちになって頂けたら幸いです。

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